ヴィンテージ冬風 狐作
 どうして、こんな事になったのだろうか。満月の夜、月明かり以外には明かりの無い部屋の中で私は自問自答していた。きっかけは数ヶ月前に注文した年代物のワイン、長年それを探し求めていた私はすぐに注文し、先日になってようやくフランスから届いたそのワインは私の期待を裏切る事は無かった。芳香な時代を感じさせる匂いと色・・・職人が丹精込めて葡萄の身からここまでの形に作り上げたその執念とも言える想いがよく感じられる素晴らしいワインであった。
キュルキュルキュル・・・。
トクトクトクトクトクッ・・・。
 待ち望んだその瞬間、私は感動の余りワインを注ぎいれたグラスを持つ手が震えた。眼下に広がる東京の夜景、照明を消した部屋から見るその光景は見事という他無く、正に宝石であった。月明かりにグラスをかざし、しばし月を見つめ夜景を見つめそっと口へと運び、静かに飲み干した。なんと言う味だろう・・・一言では形容出来ないその独特な味にたった一杯で私は深く酔いしれ心を捉えられた虜と化した。続けて静かに2杯、3杯・・・5杯ほどで飲むのを止めセラーの中にしっかりと保存する。定められた場所にワインを置いた私は、何者かに誘われるかのように窓を開けるとベランダへと出た。春のベランダには大した物は無く、芽吹いていつ花を咲かせようかと構えている花々が目立つ程度であり、何時もなら強く吹いている風が今日に限っては全く吹いていなかった。下界からかすかに聞こえる、地上の騒音もここまで来れば軽いBGMにしかならない、浮き足立つような心持で私は庭に置かれた木製のベッドへと腰掛けた時、雲が流れて満月がちょうど私の真向かいにその美しい姿を顕わにした。
"何て、綺麗な・・・!?あっ・・・あうっ・・・。"
 光に魅入り思いを馳せ掛けたその時、満月の光によって自分の中で何かが覚醒した。何とも言えない息苦しさと脱力感、そして芯の膨張感・・・しばし私はその場で苦しんだ。ワインの事はすっかり忘れ、思いは体に集中するのみ。永遠に続くかと思ったその状態は風船が割れる様に一瞬で収束した。体の何処を見ても異常は無く、体と心は幾分軽い様に思えた。
"今のは何だったのかしら・・・。"
と不審に思っていると間も無く、津波の様に第二波が襲ってきた。逆巻き立つその波の勢いは半端な物ではなく、少しでも気を抜いたら自分がどこかへ行ってしまうという気がしてならなかった。
"何・・・何なのよぉ・・・痛い・・・苦しい・・・でも・・・耐えなきゃ・・・だめ・・・。"
心の中には掻き回される様に様々な思いが交錯する。何が何なのか、分からなくなった時ふと満月を見上げると私はその思いが互いに溶け合い、別の物へと転じて私の心のみならず体までも溶かそうとしているのに気が付いた。

ビクッ!
「はあぅあぁ・・・。」
 脳天へ向けてつま先から何かが突き抜けると共に情け無い声が口より漏れる。瞬間、私の中で膨張していた何かが一段と大きくなった。目は完全に見開かれ、視線はまっすぐ月を見つめて耳は張り詰める。何か捉えようの無い巨大な手が自分の体を揉もうとしている・・・そう感じた時、全ては動き始めた。
「あっ・・・アガッ・・・。」
 グイッと体の心が勢い良く捩れると途端に骨格が動き始めた。彼女の透き通るような白い肌のあちらこちらにポツポツと黒く小さなニキビの様な物が噴き出すと、無数の産毛が純白となって顔と言わず乳房と言わず足と言わずに皮膚と言う皮膚の全てを覆いつくして瞬く間に、彼女の体はそれまでにも増して白くなり月明かりに輝きを放った。その間にも骨格の変化は続き、華奢な彼女の体はますます脂肪が薄くなり、細さを保ちつつ筋肉質な体へ、中でも腕と胸、そして大腿部の発達には著しいものがあった。
 一旦はその産毛の中に埋没した吹き出物の頂点からは種からの発芽の様に最初は細く、そして次第に太くなる棒の様な物が一斉に生え揃う。生え揃ったそれらは生えた場所によって様々な色をしていたがオジギソウの葉の様に一斉に開いて、見えたその形は鳥の羽以外の何物でもなかった。それらが落ち着く事によって皮膚を覆いつくしていた白い産毛は殆ど見えなくなったが、それでも見える部分にはそれぞれの羽の色に沿った産毛が覆い隠すように生えて下の骨格の形に定着し、首が太くなり顔も人の形から首にあわせて流線型を描き出し丸みを帯び出していく。  目の位置もやや奥へとずれて耳もまた消えて髪も羽の中へ取り込まれる。胴と顔の一体感が強まると尻を覆い隠すかのようにその上に長い羽が生え、内の数本が一際長く飛び出すと、鼻を含めた口の周りが硬質化して前へ突き出て鋭い嘴となり、巨大な翼と化した両腕の先から申し訳なさそうに出ていた五指の指は覆っていた白い産毛が黒く固体化して鋭く爪が伸びる事で、傍から見てもその翼は翼であると共に腕でもあることが容易に分かるようになった。足の膝から下も同様に産毛が変質して固くなり、指の数が前に五指から前に三指、踵から一指突き出る様に動きこちらも指と同様に鋭い爪を備えていた。

「こ・・・これは・・・私は・・・。」
 ようやく体の変化が落ち着いた私は余りの出来事に言葉を失っていた。月明かりに照らされて窓ガラスに映るのは人では無い異形の者、鋭い黒光りした嘴、全身を薄青のかぶった黒い羽毛に鼻筋から首筋までを覆った朱色と腹部の白以外は覆われた体、燕尾服の様に尻の上から2つの羽毛のまとまったものが突き出た羽、そして巨大な翼へと転じた腕・・・その姿は巨大な鳥であった。人と同じく直立に立ち、考え喋り行動する事の出来る鳥でも人でも無い存在・・・1つの燕人と化した自分を何とか理解しようと私はしばらく室内で頭を働かせた。でもそれは叶わなかった、飛ぶという事・・・それを私は理解出来なかった。当然でしょう、何故なら一度も飛んだことが無いのだから。
"百聞は一見にしかずね・・・。"
 意を決した私は再びベランダへと出ると、ベランダの脇の桟の上へ立ち下界から吹き上げてくる風を感じつつ眼下に広がる大都会の散りばめられた宝石を眺めた。元が人であるせいだろうか、鳥だというのに鳥目ではなくはっきりと物を夜間でも捕らえる事が出来るのは・・・。そして、これほど自分が風を、これまで厄介な物としてしか見ていなかった風を意識し、求めていると言うのは何とも新鮮な感情であった。
バサッ・・・バサバサッ・・・。
 次の瞬間、その体はベランダより離れた。翼をどう羽ばたかせるかは分からなかったが、本能のままに自然に力強く羽ばたかせて風を切り、大都会の上を大きく旋回するその姿は正にツバメその物であった。 "何て、気持ちがいいのかしら・・・空を飛ぶって・・・。"
彼女は密かな喜びを噛み締めてその満月の元を存分に飛び回り続けた。


 完
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