迷子冬風 狐作
「弱ったなぁ・・・。」
 大際陽一は山深い雪まだ残り木々が鬱蒼と茂った未舗装の林道の上で地図を片手に頭を抱えていた。 "この道に入ったのが13時半だったから・・・多分、今いるのはこの辺りだとは思うんだが・・・弱ったなぁ。"
地図を片手に悩む彼の傍らには一台の自転車、いや前輪とハンドルがクニャリと大きく湾曲したマウンテンバイクが道路に出来た水溜りの中に半ばつけられていた。なるほど、良く見れば彼のその服装もまた泥だらけでありそれらはほんの少し前に彼と彼の愛チャリに何が起きたのかを静かに物語っていた。
「悩んでいてもしょうがないな・・・とにかく行ける所まで行くか・・・。」
と言って彼はリュックの中に地図をしまうと壊れたチャリを曳いてその薄暗い悪路を下っていった。
 歩き出してから数時間後、いよいよ辺りは完全なる夜の帳に包まれ頭に巻いたヘッドランプ無しでは何処が道で何処からが森なのか判別が出来ないほどの闇の中、ヘッドランプの細い光だけを頼りに彼は前進を続けた。
「全く・・・あの時転びさえしなければ、今頃はもう通り抜けていた筈なのに・・・。運が悪いな俺って・・・。」
彼は孤独さを紛らわすかのようにわざと大きな声でそう呟いた。応じる声も無く、声は闇の中へと静かに吸収されていく・・・より一層の孤独感に苛まれてしまいそれ以来彼は口を噤み、意識を自分の中に固く封じて黙々と歩き続けた。
"もう8時半か・・・先は長いな・・・・。"
次に意識を向けたのは時計であった、デジタル表示の時計はバックライトの薄水色と相まって何だか不思議な感覚を俺に与える。折りしも自分を包む真の闇の中に白い綿飴の様な霧が広がり出しており、瞬く間に辺りは濃密な白い闇に包まれ見通しは殆ど無くなった。
"やばいな・・・前が見えない・・・。"
足元以外見えない事に彼は強い危機感を憶えて、ますます足を速めた。もう道を歩いているのか道から外れているのかさっぱり見当がつかない。それでも彼は歩み続けた。歩みを一歩で求めると背後から何かに襲われるという思い込みの脅迫観念でとにかく進んだ。
"おや・・・何時の間に・・・。"
 あれほどまでに濃密であった霧は辺りを見るとその影も形もなくなっていた。辺りは霧の出る前と変わらぬ全くの闇で、ヘッドライト以外に明かりは無く、夢中になって歩いていたせいでどこにいるのか皆目見当がつかなかった。とは言え、霧が晴れた事により再びヘッドライトがその役を果たす様になった事は彼にとっては非常にありがたいことであった、彼は少し気を落ち着かせて再びすっかり細くなった道を歩き出した。
 霧が晴れた事に気がついてからしばらく言った所で、彼は前方にぼんやりとした白い点の様な明かりが一つあるのに気が付いた。
"人家があるのか・・・こんな所に?まぁいい・・・とにかく行くぞ。"
それは人家の灯ではないかと考えた陽一は再び足を速めてその灯りに向って闇を突っ切った。林立する木々にぶつかる事も無く、石や腐葉土に足を取られる事も無く容易にたどり着く事が出来た。人工的に掘られた水路に一枚の短く狭い板橋の向こうには畑とその中を横切る一本道、そしてその突き当りには一軒の茅葺屋根の古風な農家がそっと佇んでおり明かりはその障子から漏れていた。
「助かった・・・。」
俺は橋の手前からそれを見てホッと呟き胸を撫で下ろしていた。

「ごめん下さい・・・。」
 自転車を脇に控えた俺がその家の玄関を開いたのはそれから間も無くの事だった。一応、自分の体に付いた泥を軽く払い落として、何とか見れる格好になって臨んだのだがなんとも不思議な事に中からは一向に返事が無い。囲炉裏には火が灯り、天井からはやや傘は破れているものの白い白熱電球が部屋の中を照らしておまけにその傍らには布団まで敷かれている、なのに人の姿はおろか気配が全く見られず感じられない。その光景に一種異様な気配を感じた陽一は入るのを躊躇ったが、鉛の様に重く疲れの湧いた体と睡魔がそれを許さず静かにその中へ立ち入り、自転車を土間の傍らに置こうとした時だった。
「何、人の家のぞいちょる?」
突然、背後から言葉を浴びせられたのは。陽一が驚いて後ろを振り返ると、そこには1人の着物姿の老婆が訝しげな目をして陽一を睨んでいた。陽一は慌てて、老婆に丁重に謝ると道に迷ってしまい一晩明かさせてもらいたいとの旨を丁寧に事の経緯を踏まえて説明した。
「あーなるほどなるほど、そー言う訳なら止まってけ。婆さ1人の生活だがら気ーにする事無いっぺ、ささ入れ入れ。」
聞く人によっては乱暴とも受け止められかねない口調で老婆は陽一に家の中へ入るように促した。
「はいっありがとうございます。では、お邪魔しますね。」
陽一は嬉しそうに口を動かすと老婆に続いて家の中へと踏み込んだ。

「この布団でねろっ、婆は隣の部屋で寝とるからな。」
 家とは別棟にある風呂から戻ってきた陽一に老婆はそう言うと、襖を閉じて隣の部屋・・・囲炉裏のある座敷に消えていった。陽一はそれを見届けると自分も電気を消して、眠りに就いた。

 翌日、目を覚ました陽一は一欠伸して襖を開けた。
「おはようございます。」
「おっ、目覚ましたな。いい声だっ。」
囲炉裏の向こうの土間の台所で調理をしている老婆に挨拶をすると、老婆はこちらを向かずに大きな声で答えた。
「朝食さ、今作っとるから囲炉裏にでもあたってろ。」
シュッシューウ。
竈からは盛んに蒸気が上がり、鍋はコトコトと動く・・・まるで戦前にタイムスリップしてしまった課の様な光景がそこにはあった。ある種の懐かしさを抱きつつ、外のトイレへ用を足しに行き戻ってくると囲炉裏を挟む様にして食事の用意がちょうど成された所だった。
「さぁさ、食べろ食べろ、婆さ作ったものだがら口にあうがはわがんねぇげど、食え食え。」
老婆に急かされる様に陽一は用意された食事に箸を付けた、その料理はお世辞にも見栄えが良い物ではなかったがどこか素朴さが溢れており、また味も悪くは無く自然を多く含んだこれまで食べた事のない美味しさを誇っている。
「美味しいですね・・・。」
「そうか?そーれはよがった。」
陽一がそう途中で褒めると老婆はその険しい顔のまま、どこか嬉しそうな笑いを浮かべた。口調もやや緩やかなものであった。その内、会話も始まり笑いまでも上がった内に朝食は終了した。

「気をつけて行けよ。んじゃな。」
「はい。どうもありがとうございました・・・それでは。」
 日もすっかり高くなった晴天の下、老婆は例の橋の所まで陽一を送り、そこで別れた。朝食の後、色々な家事の手伝い、その多くは老婆1人では手の届かない場所で壊れた物の修理することであったがそのことに非常に老婆は感謝し、手伝ってくれた事へのお礼だとある物を去り際に陽一に渡した。渡されたものは濃紺のお守りの様な物で何事かと刺繍されていたが、濃紺の生地と似た様な色でありまた長年の汚れから薄汚れていたので何が刺繍されているのかは分からなかった。何かと尋ねると老婆はお守りだから、大切に山を出るまで肌身離さず持っていろ、とあの独特の口調ではにかみながら言った。
"本当に助かった・・・いい人だったなあの人は・・・。"
家からすっかり離れた場所で一度立ち止まり、木々の間からかすかに見える家に向って軽く頭を下げるともらった"お守り"が胸ポケットに入っている事を確かめて、進み出した。
「おっ・・・本道だ。」
 老婆に指示された通りに橋から続く獣道を進むと、その道はあの林道へと通じていた。老婆の住む家はこの林道から奥へ1キロ離れた場所に立っており、彼女に言わせると外から人が訪れたのは数十年振りとのことだ。どうしてこんな辺鄙な場所に1人で住んでいるのかと陽一は何度か尋ねたが、老婆は上手くそれをはぐらかしてしまうのでそれ以上質問するのは止めた。
"人には知られたくない事もあるからなぁ・・・俺もあるし・・・。"
そう思いつつ陽一はノンビリと道を歩んだ。時間はまだある、日が暮れるまでには駅に着けるだろう・・・と予想して。

 それから90年後、時の流れは環境や社会を一変させていた。そんな中でも彼が遭難したあの地域だけは昔ながらの原生林が22世紀まで残されている貴重な財産と言われて、大切に保存されあの道もまた通る事は出来なくなっていた。そしてあの家と老婆は当時と変わらぬ姿で、真に不思議な事ではあるが存在していた。昼の畑仕事を終え、囲炉裏端に座って緑茶を飲んでいると老婆は飲み終えると静かに呟いた。
「そろそろ迎えに行ぐとすーるかな。」

「只今入りました情報によりますと、作家の山中家一さん、本名山際陽一さんが先ほど都内の自宅にてお亡くなりになったとの事です・・・詳細は追ってお伝えいたしますが、ひとまずお悔やみを申し上げます。」
 昼の全国ニュースの冒頭でキャスターがわずかな情報を基にある作家の死を報じた。その国民的人気を誇る長編小説の作者であるその作家の死に人々は驚き、その死を悔やんだ。

"ようやく俺は死んだか・・・。"
 肉体から離れた陽一は一人、白い花畑の中の一本道を歩んでいた。そして道の先から何かが自分を強く呼んでいるのを悟っていた。
"誰だ?こんな老いぼれをこんなにも招くのは・・・心当たりが無い・・・。"
そう思いつつ緩やかなカーブを過ぎ、丘と丘との間を過ぎると辺りは一変してうっそうとしたブナの原生林となり、道は未舗装の悪路となっていた。
"これは・・・あの時の・・・。"
その光景に彼は覚えがあった、そうあの22才の時に遭難した山の道である。彼は顔を見上げ目を細めると、
"あれは・・・。"
まっすぐに続く道の彼方にはあの家と家の前の木の端の対岸から、こちらに向けて手招きをする1人の、あの時助けてもらった老婆がにこやかな表情でこちらに向けて手招きをしていた。
"おばあさんではないか・・・!行かないと・・・。"
 その途端、彼は我を忘れて駆け出した。112才とは思えない鮮やかな走り・・・走る内に体は見る見る若返ったかと思えば体は縮み、肌色のその肌は白くなり速度はますます上がっていく・・・。
「よーく、帰って来たなお前。」
と老婆が言った時、そこには一匹の比較的大柄とは言えやや小柄な純白の一匹の犬、いや狼が老婆の足元に擦り寄っていた。老婆は顔を近づけて言う。
「久々のお帰りだなぁ、山犬ー。婆は待ち草臥れたぞ・・・ささ中へ入れ入れ。」
と老婆とその狼は家の中へと姿を消した。

 それから更に40年後、環境省の調査団がその付近で採取した土の中からどの遺伝子サンプル共合致しない、犬にやや似た謎の遺伝子を持った毛が発見された。調べていく内に、調査団はその遺伝子配列が博物館に保存されていたある絶滅動物の剥製と一致したのである。調査団はそれを受けて報告書にこう記載した。
「・・・また、調査団は20世紀初頭に絶滅した筈のニホンオオカミの遺伝子を含んだ毛を複数確認する事が出来た。また確認された毛及び遺伝子の状態は比較的良好であったことから、絶滅した筈のニホンオオカミは×○山地にて複数生存している可能性が極めて高い。今後更に詳細な調査が行われれば、それははっきりとするだろう。」


 完
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