家に帰りついた時にはもう日は高く上っていた。あの後はそれは大変なことで、全身に浴びたその液体、つまり自殺した老人の体液をそのままに事情聴取の為に駅員と警官に付き添われてホーム脇の人気の無い所で1時間ほど事情聴取を受け、その後駅の浴室を貸してもらってそこで体を洗わせてもらうとそのまま駅側の好意で自宅まで送ってきてもらったのである。
家に着くと俺はあまりの事に相当なショックを受けていたが、すぐに服を脱ぎ捨てると再び自宅の風呂へつかって体を、特に頭と顔、そして首筋を念入りに何度も何度も気が狂っているのかと思うほど洗った。気が済むまで体を念入りに洗った俺はとにかく、あの服を洗濯機に入れて軽く洗うとすぐに近所の行きつけのクリーニング屋に出してきた。そして、一通りの事を終えた俺はすっかり疲れ果てて、そのまま今のソファーの上で沈むように深く眠りについた。
次に目を覚ました時は次の日の朝であった。これまでの疲れと昨日のあの出来事によってこれほどまでに長く寝てしまったのだろう、丸一日近く眠った事でようやく気分が晴れた俺はもう一度風呂に入って体を洗うとこれまでやろうとしても仕事の為に出来なかった事を始めた。
幸いな事にその殆どは趣味に関する事であったので相当な気分転換に役立ち、その後数日の間はあの出来事を思い出す事も無く快適な日々を過ごしていた。そして休みもあと一日と言う日の夜、俺は不思議な夢を見た。
夢の中で俺はどこかへ向かって森の中の一本道を歩いていた。その道の先に一体何があるのかは全く分からなかったが、行かなくてはならないという使命感に駆られてそのまま歩を進めた。しばらく、その道を歩くと目の前に一軒の茅葺屋根の古い農家が姿を現した、道はほかに通ずる事無くその家の玄関へと続いているのでとにかくその玄関の扉を、何気なく開けて中へと踏み込んだ。
「やや、よく来たなぁ。さぁ、入れ。」
と家の中から1人の若い男が俺を迎え入れた。見覚えのない初対面である筈なのにどこか懐かしさと言うか親近感を俺はその男から強く感じ、軽くこちらもそれに軽く答えて上へと上がった。
上へ上がった俺は座敷に通されて、上座に敷かれた座布団へと座らされた。そして、しばらくそこで待っていると男は箱膳を2つ、1つは俺の為にもう1つは自分のために持ってくるとそれを並べてつまらない物だが食べてくれ、と告げた。
それにも俺は素直に応じて、早速そこに盛られた食事に箸を付け始めた。他愛の無い会話を繰り返しながら箸は進み、気が付いた時にはそこに盛られていた全ての食事を食べ尽くして酒にまで進んでいった。かなり強い、これまで飲んだことの無い清酒であったが中々美味しく酒好きである俺は、その見知らぬが妙な親近感を感じる男と共にしばしそれを楽しんだ。
そして、そろそろお開きと言う時になってその男は急に神妙な顔をすると、俺に向かって土下座をして許しを請い出した。一体何の事なのか、さっぱり思い当たりの無い俺が慌ててその理由を尋ねると彼はこう告げた。
「俺が憑いていたばかりにあのような事になって申し訳ない。あの朝の事を許してくれ。」
あの朝の事・・・瞬時に俺の頭には、あの忌々しい意気揚々とした気分を、一気に消された鉄道自殺に巻き込まれた事を思い出した。だが目の前にいる男はどう見ても、あの時飛び込んだ老人とは全く異なった若い筋骨隆々とした男である。
どうしても事情が上手く飲み込めないので、俺は更に続きを尋ねた。すると、男曰く自分はあの飛び込んだ男にとり付いていた動物霊であり、以前にあの飛び込んだ男が若い頃日常的に続けた虐待によって死んだ犬猫の怨念から生じたもので、徹底的に報いとしてあの男の人生を滅茶苦茶なものにしてやり、共に虐待を楽しんでいた男の家族をもっと苦しめてやろうと電車に飛び込ませたのだが、ついついうっかり男の背後にいた俺の存在に気がつかず、巻き込んでしまい迷惑をかけてしまった事を詫びたいのだと言う。俺はハァハァと頷くに止めていたが、あまりにその男が誤ってくるのでその辺でもう大丈夫だと告げた。
「大丈夫ですよ、確かにあの時はムシャクシャしていましたが今は何ともありませんし・・・そんなに誤らなくて大丈夫です。」
「そ・・・そうですか、では1つ何か形として詫びさせて下さい。そうしないと収まらないので・・・何かありますか?」
「・・・特には無いですね・・・申し訳ないが・・・。」
俺はついついその強い視線に耐え切れなさそうになりながらもそう言葉を振り絞る様に紡いだ。すると男は軽くため息を突いて、しばし虚空に視線を向けると何かを思いついたかのように手を叩いて顔をほころばせて言った。
「そうだ・・・あなたを守ってあげましょう!」
「守るって・・・一体どうやって?」
「決まっているじゃないですか、あなたに取り憑くだけですよ。簡単なことです。」
「取り憑くって・・・俺は祟られるのか?」
「何言ってんですか、あなたみたいな優しい人を祟る訳が無いでしょう・・・人が人と付き合う時に対応を返るのと同じく僕達、霊も取り憑く人によって対応を変えるのです。わかりますね。」
「はぁ、何とか・・・。」
「それにもうあなたは断れませんよ。」
「どうして、そんな事が?俺はまだ何とも答えてはいないのだが・・・。」
俺が尋ねると男は軽く微笑んでこう告げた。もう同意は取り付けてあるのだと。
「もうあなたの守護霊とご先祖一同から、同意を取り付けてありますので問題ないです。自分は低級な動物霊の塊ですからね、ちゃんとした人の霊には敵わないのですよ。」
「へっ?・・・マジッすか。」
「はい、マジッすよ。」
その答えを聞いて俺はどこか意識が飛びそうになった。だが何とかそれを持ち耐えると彼はもう待ちきれないと風に続けた。
「じゃあ、早速しましょう。行きますよ・・・はい。」
「てっちょっとちょっ・・・。」
彼の掛け声と共に急に世界は暗転した。そして、俺は夢の中で意識を失ったのであった。
「はっ・・・夢か・・・だよな。」
俺は飛び起きると何も代わっていないことを確かめて息を吐いた。
「夢なんだよ・・・夢だ・・・でも妙に現実感があった夢だったな・・・。まぁ、ひとまず顔でも洗うかな。」
そううわ言の様にボソボソと呟き、俺は布団から出て1階にある洗面所へ向かった。途中階段を下りている際に、俺は廊下に落ちていた空き缶・・・昨日の夜に酔った俺が、そこら辺に放り投げていた物・・・に足を滑らせてバランスを失い、体が階段から宙に舞った。
床に激突する!と直感した俺は思わず目を瞑り、衝撃に備えたが・・・何と空中で軽く一回転してヒョイッと何の造作無く着地してしまったではないか。着地してしばらく、恐る恐るその目を開けると、見事に俺は床の上に着地していた。あれだけの高さから落ちてきたと言うのに、傷はおろか体に特に痛みは全く見られず感じられなかった。
「奇跡だ・・・奇跡がおき・・・。」
"はーい、おはようです・・・大丈夫ですか〜?"
俺が動転していると不意に脳裏に声が、何処かで聞き慣れた・・・そうあの夢の中での動物霊であると言った男の声が木霊した。
「えっはっはい、どなたで?」
"おや、忘れてしまいましたか・・・哀しいですね・・・まぁ良いでしょう。お互い知り合って間もない事ですし・・・私ですよ、あの迷惑をかけた動物霊です。約束通り、取り憑かせて頂きました。どうぞよろしくです。"
「ははっ・・・それはどうも・・・こちらこそよろしくお願いしますね・・・ハハハッ・・・。」
俺は力なく笑ってその言葉を返した。とにかく、あの夢が事実であったという事と無傷であったと言う事が相まって、俺は混乱の渦中にあった。それでも次第に落ち着いて来た時、頃合を見計らっていたのかまたあの声が響き始めた。
"早速、お役に立てた様でなによりです・・・気が付かれましたか?手を見て御覧なさい、そうすればすぐに・・・ね。わかりましたでしょう?"
その言葉に促されて視線を右手へと向けると、そこには何時もと変わらず手が・・・ありはしたが、その様態は一言言って異なっていた。どちらかと言えば白く毛の薄い俺の腕からは白が無くなり、赤系統の明るい茶色と黒に白が斑模様に混じりあった、比較的フサッとした毛が余すところ無く覆い尽くしていた。そして、白毛に包まれた手先の爪は長く鋭く伸びて、手の平にはちゃんと肉球が存在していた。
大慌てで俺は洗面所へ駆け込み、その鏡に自らの体を映した。するとそこには俺と殆ど変わらない背丈で引き締まった体全身に、あの斑模様の獣毛を生やし目を翡翠に輝かせて、長い尻尾と黒い三角耳を頭に立たせた1人の猫が、いや猫人が目をすっかり見開いて鏡を見詰めていた。そして、紛れも無い事実としてそれが俺であるという事に揺るぎは無かった。
「これは・・・どういう訳なんだい・・・説明してもらおうか・・・。」
"あっそんな凄みを効かせないで下さいよ・・・ほら、夢の中で私はあなたを守ると約束しましたよね?その時あなたはどうやって守るのかと笑っていましたが、それがその約束と笑いへの答えの1つです。私が動物霊であるのはご承知の通りですが、1つこれだけは忘れないで下さい。私は幾つかの獣霊の集合体だと言う事を。その結果として私はあなたが危機に陥った時、それぞれの事情に最も適している獣の霊とあなたの本来の霊を融合させて、瞬時に体を変化させて命を守るという仕組みなのです。"
「そう言えば、そんな事を言っていたな・・・つまり、今回は階段の上と言う高い所から落ちたので・・・。」
"はい、猫にしました。とは言え完全に猫としてしまうと、今度は体へ掛かる衝撃を分散し切れませんのでその様にしました。戻るにはただそう念じてさえくれれば結構です。早速して見て下さい。"
言われた通りに俺は念じてみた。すると鏡に映っていた猫人の体からは瞬く間に毛や尻尾が消えて、お気に入りの水色のパジャマを着た寝起きの俺の姿に戻った。その手際の良さにおれはある意味感心し、ふと思い付いた事を動物霊に聞いてみる事にした。
「ところで・・・俺の意思でなる事は出来るのか?」
"あぁはい、可能ですよ・・・ただしそうするには、一度でもなった事のある獣に限定されますがどういう形態になるかは、完全なる獣の姿かそれとも先程の様な半人半獣の姿を取るかは自由意志です。これもその様に念じさえくれれば、何時でも何処でも可能ですよ。"
「便利なものなんだな・・・。」
俺は改めて感心した。そして、何時しか心の中での取り憑いている動物霊に対する印象が次第に改善され、やがて俺はある言葉を口にした。
「おまえ・・・名前はあるのか?」
"名前ですか?・・・覚えがありませんね・・・何ですか、その私に名前を付けてくれると言うのですか?"
「あぁそうだ・・・ほらな、どうせこれから一緒にいるのだから、名前で呼び合えなくてはならないだろう?だからさ・・・やはり無いのか、何か付けてもらいたいこれと言った物はあるのか?あればそれを使いたい。」
一瞬、動物霊からの返答が遅れた。どうやら少し悩んでいたらしい、しかし上手く浮かばなかった様で解くには無いと返して来た。そこで俺は、昔飼っていた猫の名前・・・確かミケ、と言う名前をくれてやった。この様な事を全く想定していなかったのか、その時の動物霊の静かなそれでいて激しい喜び様が印象な残り、つけてやって正解であったと確信を深めた。
後日、俺に唐突に動物霊ことミケはこう言ってきた。
「最初出合った時にはこのような展開になるとは、全く考えていなかったです。」
「ミケ。」
「はい何ですか?」
俺は一拍の間を置いていった。
「それは俺のセリフでもあるよ。俺も同感だ。」
その途端、俺の中で2つの魂が互いに喜び合って共鳴しているのを俺は深く感じた。これからも何とか上手くやって行けそうで何よりであるなと・・・梅雨晴れの空を仰ぎ見つつ。