その日私は買い物のために、自転車で隣町のスーパーまで出かけました。普段なら川沿いのサイクリングロードを通っていくのですが、その日はそこへ行くまでの道が工事中であったので久々に住宅街の中の狭い道を行く事にしました。車や歩行者に避けながら狭い路地を走って行く内にどこでどう道を間違えたのか、私の目の前で道は途切れて空き地へとつながっていました。辺りの光景を見ても全く見覚えがありません。
"困ったわ・・・ここはどこかしら?"
と思いながら、誰かに道を尋ねようと私はそのまま空き地を横切って反対側へと続く道に入りました。
夏の午前の薄曇の日であったので、だれか歩いているだろうと思いましたが不思議な事に誰も歩いていません。そればかりか、物音と言う音がしないことに私は気が付きました。自分と自転車が発する以外は全くの無音・・・その異常さに私は一種の恐怖を覚えてやたらめったらに自転車を漕ぎました。そして、空しさと疲れを感じて自転車を止めたときです。私の耳にある音、鈴の音が聞こえてきました。慎重にそちらの方向へ近付いていくと、次第に音は大きくなりある路地を曲がるとその突き当りの一軒の家からその鈴の音は響いていました。私は特に考える事無く、一種の喜びを持ってその家の門を叩きました。
「どなたでしょうか?」
中からはすぐに人が、白衣に身を固めた男性が出てきました。私は道に迷った旨を伝えると、すぐに納得した表情をして親切に道を教えてくれたのです。それを聞き終えた私が礼を行って立ち去ろうとするとその男性は私を呼び止めて、疲れているようだからお茶でもどうですか?とお茶に誘いました。最初は遠慮した私ですが、考えてみれば喉がからからに渇いていたのでお言葉に甘えて家の中へとお邪魔しました。
その家の中は外から見たのと変わらない平凡な内容でした。出された緑茶を飲みながら、談笑している内にそれぞれの身の上話になりました。男性によれば自分はもう十何年も前からこの町に住んでいるとの事で天涯孤独の身なので何の気兼ねをすることも無いと笑いながら言いました。私もその何かにつけて明るい男性に好感を抱き、様々な事、夫の暴力に悩んでいる事まで彼に喋っていました。その事を聞いた彼はふと眉間にしわを寄せると、とんでもない男だと夫を評し、私に同情してくれました。
「そうだ・・・私が何とかして差し上げましょう。」
とまで提案してきたのです。出会ったばかりのあなたとは関係の無い事ですと、私が断ると彼はそれを否定し、自分はそういった事を聞いては我慢がならない性分で何とか役に立ちたい。と何度も言って来ました。そこまで熱心なのならと私が、了承すると彼は一旦奥へと下がりある小さな小瓶を持って戻ってきました。
「これを飲ませなさい。そうすれば、あなたに対する暴力は収まり離婚する必要は無くなる。」
と彼は小瓶を机の上に置いて言いました。私が夫を殺すつもりは無いと言うと
「これは毒ではありません。人体には無害かつ安全な代物です・・・そして、夫にこれを飲ませたらあなたの夫は大人しくなるでしょう。」
「え、はっはい。」
私は思わず彼の気に飲まれて答えてしまいました。
「ちなみにこの薬は、加熱、冷却等を加えた所でなんら成分に変化はおきません。料理等に混ぜるのが効果的ですね、最も直接飲ませてもかまいません。わかりましたか。」
「はい、何とか。」
「はい、大丈夫です。・・・っともうこんな時間ですか、いいでしょう。もう暗いので家まで送っていって差し上げましょう。」
「そんな、大丈夫ですよ。自転車で帰りますので。」
と瓶を手に持ちながら立ち上がろうとすると
「この辺は夜になると暴走族とかが出て物騒なのですよ。そんな所へ1人で行くのは正気の沙汰ではありません。さぁ、こちらへ。」
と男性に言われるがままについて行くと玄関の脇に止められていた車に乗せられました。驚いたことにその車は今では全く目にすることの無くなったオート三輪だったのです、既に私の自転車は荷台に取り付けられていました。車に乗ってしばらく立つと私は急激な睡魔に襲われました。何とか持ち堪え様と努力しましたがいつしか完敗して目を閉じてしまいました。
"はっ・・・ここは・・・。"
次に目を覚ますと私は不思議な事に自宅の台所に立って料理をしていました。後ろの机の上にはいつもの紙袋が2つ置かれて中から食材が盛れています。時計を見ると時間は午後6時半過ぎ、確かあの家を出たのが午後7時頃であった筈なので先ほどの事は夢だったのかと、紙袋の元へ行きながら思ったその時でした。私の目はある物を捉えていました、それはあの2つの小瓶です。無色透明液体を湛えたあの小瓶が置かれているではありませんか、私は思わず声を上げてそれを手に取りました。確かにあの小瓶です。
また、突然の事に驚いていると玄関の鍵が開く音が聞こえてきました。私は急いでその小瓶の内、無色透明な物の栓を開けると夫が夕飯の際に飲む焼酎の中に注いでいました。
"これでいいのね・・・。"
と今度は空になった小瓶を流しの脇に置くと私はにこやかな笑顔で夫を迎えました。
その日の夫は珍しく、静かに夕食を食べ焼酎を煽ると疲れたと言って部屋へ引き込んでいきました。
"あの薬の影響かしら・・・?"
と私は思いつつ久々の静かな夕食を満喫して家事を終えると眠りにつきました。
翌朝、何時まで経っても起きて来ない夫を意起こしに行くと、そこに夫の姿はありませんでした。布団の中には夫のパジャマが抜け殻の様に残り、その中には一匹の三毛猫が気持ちよさそうな顔をして寝ていました。その瞬間私は確信しました。夫は猫になってまったのだと、そしてこの猫は夫なのだと・・・。私は静かに笑っていました、夫に対する哀れみの気持ちは一切抱けませんでした。
私は夫のパジャマを処分すると、警察へ夫がいなくなったと通報しました。警察は失踪事件として捜査を開始しましたが、まったく手がかりは得られませんでした。それは当然でしょう、何故なら夫は猫になってしまったのですから。
ほとぼりが冷めると私は愛好家へその猫を売りました。息子が猫アレルギーだったからです。貴重なオスの三毛猫ということでその愛好家は破格の値段で喜んでそれを購入していきました。その資金を元手に私は息子の協力の下、かつての私と同じような目にあっている人々を救う団体を設立し、順調に運営を行っています。一時は苦境にも立たされましたが、今では全国はもとより海外の一部にも支部を開設するほどの団体に育て上げ、60を越えた今でも会長という身でありながら、前線に立って頑張っています。
それでも時折思うのはあの出来事です。私に転機のきっかけを与えてくれたあの男性とあの家、そしてあの町は一体どこにあるのでしょうか。