飼い主の想い冬風 狐作
 ある所に犬の大好きな女性がいた。その人は大抵の動物は好きであったが犬、中でも自分の飼っているビーグル犬、近所に捨てられていた子犬を溺愛し家にいるときは、何をやっている時でもいつも犬と一緒に過ごしていた。
 そんな彼女にとって苦痛とも言える時間があった。それは会社に出勤する時間であり、毎朝後ろ髪を引かれる思いで出勤し、会社では真面目に仕事をするものの暇さえあれば定期入れの裏の犬の写真を見て1人ニヤニヤしていた。そして、勤務時間が終われば同僚とどこかへ遊びに行くことも無く、一目散に家へと帰り玄関にて彼女の帰りを待っている犬に抱きつくのであった。
"いつも犬と一緒にいられる生活がしたいなぁ・・・。"
それは彼女が事ある毎に思う切実な願望であった。それは仕事を止めればすぐに叶うことであるのは彼女も承知していた。しかし、幼い時に事故で両親に先立たれて身寄りの無い天涯孤独の彼女が仕事を止めることなど出来なかった。
"しっかりしないと・・・私には頼れる人が誰もいないのよ。全てを自分でやらないとならないんだから。"
そう思った後でそう自分に言い聞かせるのもまた日常であった。

 いつしか数年の時が経過した。家や周辺の環境、そして彼女自身は犬を飼い始めた当時と余り変わってはおらず、むしろ彼女の犬を愛する気持ちはますます強くなっていたが対象的である、犬は確実に見た目以上に年を取っていた。
 無論、犬の老いに彼女が気づかないわけが無い。彼女は巷の女性の様に自らの老いを気にすることも無く、ただひたすらに彼女の愛犬の老いだけを心配していた。
"なんだかコロちゃん、この頃私が呼んでもすぐに来なくなっちゃったなぁ、ご飯も余り食べていないし・・・何だか心配だなぁ。"
数年前、犬がまだ若かりし頃から彼女の抱いていた"犬とずっと暮らしていたい"という願望はこの期に及んでますます強くなっていた。先に書いたように、何度仕事を止めて全てを犬のために捧げようと思ったかわからない。しかし、そのたびに彼女はそれを強く否定し、気晴らしに
"お金があれば、アメリカのあの会社に登録してコロちゃんのクローンを作ってもらいたいわ・・・。"
と新聞で読んだクローン猫の記事のことを考えていたりしていた。だが、もう限界なのであるのは明らかだった。老いる犬、募る彼女の想い・・・臨界点はもうまもなくであった。
 数日後、彼女は定時に仕事を切り上げると急いで家へ帰った。何故なら、ここ数日で犬の老いがますます激しくなってきたからである。有給を取りたかったが既に今年分は使い果たしていたので出来なかった。
"無駄遣いしすぎたわ・・・こういう肝心なときに使えないなんて・・・。"
家へ帰り着くとすぐに鍵を回してドアを開けた。ドアはすぐに開き、ドアの向こうには愛犬が自分を迎え入れてくれる・・・もはや日常となったその光景をニヤニヤと笑いながら、中へ足を踏み入れた。
「コロちゃん、ただいま〜。」
と口にして。しかし、そこに犬はいなかった。室内からはこちらへ来る気配すらしない、その瞬間彼女の一日の最大の楽しみは彼女にとって最大の驚きとなってしまった。
「コロちゃん!?どうしたのっ!」
彼女は靴を乱雑に脱ぎ捨てたまま、廊下を走り居間へと駆け込んだ。居間の片隅には1.5畳程度の大きさのゲージが置かれ、そこは愛犬「コロ」の家である。狭いゲージの入口を半ば飛び越えるようにして中に入ると、犬小屋の中から犬が後ろ足と尻尾を投げ出した格好で静かに横たわっていた。
"まさか・・・。"
彼女の脳内では最悪の結果がその光景を見て瞬時にはじき出されていた。しかし、彼女はそれを信じずに妙に冷静になって、そっと尻尾を握った。尻尾を握るとどんなに眠っていてもすぐに起き上がるのだが、反応は無かった。
「コロちゃん、コロちゃん!しっかりして・・・ねっ私よ、私なのよ!」
彼女は二度三度尻尾を握って反応が無いのに巣の中から引っ張り出すと、胸に抱きかかえて懸命に呼びかけた。しかし、その犬が何らかの反応を示すことは無く、目は閉じられたままであった。そして、その体は氷の様に冷たく、その心臓は脈打っていなかった。
「コロちゃん・・・コロちゃん・・・嘘よ、嘘よね・・・コロちゃん・・・なんで私をおいて逝っちゃうの・・・ねぇ・・・。」
現実を受け入れ、茫然自失とした感で彼女はしばし犬を抱えたまま呟き続けるといつしかその目には涙がたまり、シクシクと泣き出した。暗いというのに電気もつけられていない静寂の部屋には、彼女の発する嗚咽だけが響いていた。

"ここは・・・どこ?"
 彼女が気が付くと、そこは見知らぬ全てが白い空間にいた。何の音も、空気の流れも、自分がどこに足をつけているのかもわからないその空間で彼女が戸惑っていると、その耳にある懐かしい声が聞こえた。
「クゥ〜ン・・・。」
「コロちゃん!?コロちゃんでしょっ!」
その犬の鳴き声に驚いた彼女はふいに元気になると、逝ってしまった愛犬の名を口にした。すると
『・・・静かにしたまえ・・・ここは聖域だ・・・。』
「誰?」
突然、その空間に低い男の声が響いた。
『全く・・・うるさい女だ・・・まぁ、いい・・・用件を言おう。おまえは、あの犬を生き返らせたいのか?』
彼女はその謎の声の突然の質問に戸惑いながら答えた。
「え・・・。そ、それはもちろん。生き返らせたいのはやまやまよ・・・でも・・・。」
『でも、何だ?』
「・・・死んだものが生き返ることはありえないからよっ、だから悲しんでいるのよ!それがわからないの?」
じれったく聞いてくる声を思わず彼女は怒鳴りつけた。声の元の姿は見えないが、少々驚いているような気配が感じられる。
『そう怒鳴るな女よ・・・いいだろう、生き返らせてやろう。』
「へ・・・生き返らせるって何を・・・。」
『わからんのか?犬だ、犬。お前の飼い犬を生き返らしてやると言っているんだ。』
「コロちゃんを・・・そんな・・・本当ですか・・・?」
『私は嘘は言わない・・・まぁ、目を覚ますのを楽しみにするがいい・・・さらばだ。』
「ちょっと、待って!どうして、コロちゃんを生き返らせることが出来るなんて、あなたは一体・・・。」
ようやく、事態を飲み込んだ彼女は見えないその存在に必死に声をかけた。しかし、すぐに気配は消え辺りは瞬く間に暗転し、彼女の存在も消えた。

 彼女が目を覚ますとにはすでに窓からは朝日が差し込んでいた。
"もう、朝だわ・・・今のは夢だったのね・・・。ふふふ、いくら悲しんでもあの子が・・・コロちゃんは生き返らないのよね・・・!?"
「コロちゃん・・・?」
彼女はそう思って腕の中に抱えてあるはずの愛犬の遺骸を見ようと視線を下に向けた。しかし、そこにはその姿は無く、抱えるものを無くした彼女の腕だけがあった。 彼女は犬の遺骸が消滅したことと同時にある事に気が付いた、そう彼女の腕には白と茶色の斑の毛がびっしりと生え揃っていたのだ。彼女は一瞬大いに驚いたが、すぐに何が起こったのかを悟り、喜びと共にまた新たな驚きを感じた。悟ったのは愛犬、つまりコロちゃんが生き返ったことを、そして喜び驚いたのは生き返ったことである。
いや、正確には生き返ると言う表現は正しくないのかもしれない。 何故なら居間の大鏡に映るのは彼女でありながら彼女ではなかったからだ。そこに映るのは犬の頭にピッと上に立った尻尾と垂れた耳を持ち、全身に白と茶色の斑模様の獣毛を生やした犬と融合した人間、言うなれば人ではなく犬人となった彼女が映っていたのだから。

 それから数ヵ月後、彼女は何時も通りに家を出て会社へ出勤している。
 その姿は人そのもので特に何の変わりは無く、誰も以前の彼女のままであると信じている。しかし、彼女はすでに以前とは違った存在であった。仕事を終えると彼女は、家へ帰ると全てのカーテンを閉めて誰も見ていないことを確認して、服を脱ぎ捨てる。そして姿を変える。
 そう、今の彼女はその中に人としての彼女と犬人としての彼女の2つの顔を持ち合わせているのだ。昼や人前では人として、夜間や自分以外に誰もいない自宅では犬人として過ごす生活は完全に彼女の日常と化していた。あの日以来、彼女は人として、そして犬人としての生活を満喫しつつ新たな人生を歩んでいるのであった。

"お金がたまったら・・・仕事を止めて田舎へ移住しようかな・・・。"
それが今の彼女の夢である。


 完
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