山のあなたの空遠く
 時は8月、夏休み真っ盛り。
 祐子は、連日30度を超える猛暑の東京を離れて田舎の祖父の家を訪れていた。
 来年になったら大学受験で、夏休みはきっと毎日予備校通い。だから今年はどうしても田舎に帰っておきたいというのが表向きの理由。けれども、本当の理由はそれだけじゃなかった。
 帰省した翌日、ぎらぎらと照りつける夏晴れの太陽の下、祐子はお弁当を持って一人で山歩きに出かけた。祐子は、どちらかというと見た目は華奢だが、体力には自信があった。
 山奥の祖父の家から沢伝いに、さらに深い山中へと分け入っていく。人の手の入っていない、本物の自然の中へ。

 数時間ほど歩くと、木々の向こうからさぁぁぁという水音が聞こえてくる。視界が開けた先には、落差10メートルほどの小さな滝と、澄んだ水を湛えた滝壺があった。少女の脇を、爽やかな涼気を含んだ風が通り抜けていく。祐子は、美しく構成された小世界にしばし見とれた。ここは、自分だけの秘密の場所。
 祐子は、お弁当の入ったザックを岩の上に置くと、岩陰に入ってブラウスを脱いだ。白い肌、引き締まった四肢が露わになる。少女は、地面に手を着き、目を閉じて、猫がするように大きな伸びをした。
 さわさわ、という葉擦れのような音とともに、少女の白い肌を明るいオレンジ色と黒のストライプが覆っていった。腕は一回り太くたくましくなり、足は同じく太めになったが、股とすねが縮まって足首から先が伸びている。手や足の裏には、柔らかい肉球が生じていた。胸から腹にかけては、白いふさふさした毛並みが覆っている。
 祐子はぐるるる…と喉を鳴らした。その顔は既に猫科の獣のそれに変化している。鼻筋はせり出し、ピンクの鼻鏡が生じている。顎が大きくふくらみ、胸から首にかけて生じた白い毛皮が口元までを覆っていて、頬はオレンジと黒の細かい縞模様の毛並み、頬の側はたてがみになっている。ショートカットの髪の毛は全体的にオレンジに変色し、丸みを帯びた二つの耳が頭の上に突き出ている。
 ゆっくりと、金色の瞳が開かれる。
 身体と同じ縞模様の尾をしゅっと振って、祐子は滝壺へと身を沈めた。混じりけのない心地よい冷たさが全身を包む。

 ――虎は、水浴びが大好きだ。

 5分、いや、10分ほど清水に浸かっていただろうか。熱く燃えるようだった身体もすっかり落ち着き、虎は、岸に上がろうとしてふと前脚を止めた。清々しい木々の香りに満ちた森の空気の匂いをかぐ。人の匂いが……気配がする。
――まさか、こんな山奥に人がいるはずないよ。
 祐子は首を横に振って、自分の臆病な憶測を否定したけれども、心の靄は晴れなかった。念のため、身を隠せる藪のある岸辺を選んで陸に上がる。
 したたる水を切るように尾をひと振りすると、虎は藪の中に身を潜めた。確信はないが、彼女の中の野性がそうしろと命じている。用心深く、虎は森の奥を注視した。耳も、鼻も、すべての感覚を総動員して、虎はじっと様子をうかがう。
 かさかさと下生えの中を何かが進む音がする。もはや疑いの余地はない。人の匂いが近づいてくる。  祐子は、どうすべきか瞬時に頭を巡らせた。隠れている獣に気づかなければいいけれど……少し勘のいい人間なら、すぐに見つかってしまうだろう。滝壺の脇の岩には、ザックと服が置きっぱなしになっている。ごく普通の感覚を持った人間だったら、持ち主がいないのを見て、周りを探すことくらいはするんじゃないか。
 相手がここに到着する前に、荷物を回収できるだろうか? わからないけれど、やるしかない。焦った虎が藪から岩場へ飛び出したのと同時に、気配の主も森の中から姿を現した。
 祐子と同じか、1つ年下くらいの少年。すらりとした身体にタンクトップと短パンを着け、日に焼けた肌が目に眩しい。
「君は……。」
 少年は、突然現れた虎を見ても驚かなかった。それどころか、巨大な猛獣に向かってにっこりと微笑んでみせる。
「こんにちは、はじめまして。」
 岩に爪を立て、警戒のうなり声を上げた虎に向かって、少年はもう一度微笑んで手をさしのべた。
「心配しないで、僕は君の仲間だ。」
「?」
 虎は首をかしげた。この少年は、何を言っているのだろうか。
「僕は、山犬……つまり、狼に化身するんだ。君は虎なんだね。虎に化身する人がいるなんて、初めて知った。」
 少年は嬉しそうに言い、不審そうな虎の表情を見てぽんと手を叩いた。
「あ、証拠がないもんね、信用できないよね。でも、そうだなぁ。ここで化身してもいいんだけど……ちょっと待ってね。」
 少年は岩陰に身を隠そうとして、すぐに赤面して戻ってきた。
「ごめん、そこで着替えてたんだね。じゃあ、僕はしっぽだけでいい?」
 そう言うと、少年は目を閉じて深呼吸した。天に顔を向け、口を大きく開く。
 あああおおおぉおおぉおおううううぅぅぅ……
 美しい遠吠えだ、と祐子は思った。力強く透き通っていて、けれども何処かもの悲しい憂いを帯びている。夏の空に消えていく音を追いかけるように、虎もまた天を見上げた。
「これで、信用してもらえる?」
 静かに少年が言い、祐子は視線を大地に戻す。少年の短パンの裾に、ぼさぼさした灰色の毛並みが覗いていた。ぱたぱたと動くその毛むくじゃらの塊は、明らかに本物の犬科の尾だ。祐子は、それにじゃれつきたくなる気持ちをぐっと抑え、頷いた。少年の顔が安堵に緩む。
「良かった。僕、ずっと仲間を探してたんだ。だから、偶然でも君に出会えてすごく嬉しい。」
 虎も、喉を鳴らして同意した。仲間がいるなんて思ってもみなかった。けれども、現実に、目の前に狼の尾を生やした少年がいる。きっと、完全な狼の姿になったら美しいのだろう。人間の貌もなかなかハンサムだけれど。

「あの、もし良かったら、少しでいいから、話がしたいと思うんだけど……。」
 少年はそう言って少し頬を赤らめた。虎は、何も言わずに、すっと岩陰に身を隠す。しばらく経って、岩陰から姿を現したのは、黄色のブラウスを身に着けた細身の少女だった。かわいい子だな、と少年は思う。
「ええと、改めて、はじめまして。僕は、矢崎早彦。向かいの山の麓に住んでる。」
「私は、井上祐子よ。近く実家に里帰りに来てるところ。」
「井上ってことは、もしかして、下の沢の井上のおじいさんとこの?」
「そうよ。」
 少女ははじめて緊張を解いて頬を緩める。
「そうなんだ、それで……去年も、ここの滝に誰か来ているなって気がついたんだけど、君だったんだね。あの、失礼かもしれないけど、こんな山奥で、なんで女の子の匂いがしたんだか分からなかったんだ。だから、僕の勘違いかと思ってた。」
 早彦は照れ笑いを浮かべ、祐子も微笑を返した。
「じゃあ、今度は矢崎さんが狼になってみせてよ。私だけ恥ずかしいかっこ見られたんじゃ、損だもんね。」
 少女が冗談めかして促すと、少年は二つ返事で頷いた。
「うん。しっぽだけって中途半端でむずがゆいしね。あと、僕のことは早彦でいいから。」
「私のことは祐子でいいよ。」
 少女と少年は顔を見合わせて、嬉しそうに笑った。


(終わり)
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